サッカー蟻地獄

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被爆者手帳を見せようとした長沼元JFA会長の思い

先日、長沼健JFA会長がご逝去された。
深山静夫重松良典大橋謙三渡辺正宮本輝紀今西和男小城得達森孝慈金田喜稔木村和司らと並び、多くのサッカー人を輩出してきた広島が生んだ、最も偉大なサッカー人の一人であったと思う。
いや、この中でも随一と言っても過言ではないだろう。

何度かスタジアムでお見かけすることもあったが、ついにお目にかかる機会は無かった・・・。

長沼氏の人生を振り返る、等と言ってはおこがましいが、簡単に振り返ると日本サッカーの発展の歴史そのものだったと思う。

  1. 広島高師での全国優勝
  2. 関学での関西学生リーグ3連覇
  3. 日本初の国際学生週間(後のユニバーシアード)参加
  4. 日本初のワールドカップ予選参加&予選での日本初ゴール
  5. 古河電工天皇杯制覇、社会人サッカーの夜明け
  6. 現役選手として日本代表監督就任、クラマーコーチとの二人三脚
  7. 東京オリンピックでのアルゼンチン戦勝利時の日本代表監督
  8. メキシコオリンピック銅メダル獲得時の日本代表監督
  9. アディ・ダスラー(Adidas創設者)との出会い
  10. JFAの財団法人化
  11. JFAの学生リーグ中心から社会人リーグ中心への改革(76政変)
  12. JFAの近代化(個人登録制度、トレセン導入など)
  13. キリンビールとのパートナーシップ
  14. 高円宮親王を名誉総裁に迎える
  15. 加茂監督更迭、岡田監督で1998年フランスワールドカップ初出場
  16. 2002年ワールドカップ招致
  17. プロ化検討委員会創設、委員長

なんと日本初が多く、今の日本サッカーのキーワードが多いことだろう。

もちろん、それだけ影響力があれば批判も受けて当然ではあるが、これだけの功績を残されて旅立たれた長沼氏に、深く、深く哀悼の意を表したい。日本サッカーを引っ張ってきた長沼氏のことだ。道中は八咫烏に導かれてあの世に行っただろうと思う。
この長沼氏のご逝去に際し、スポーツ総合研究所の広瀬氏がこういうエピソードを公表されている。

これは他言したら叱られるかもしれないが(健さん、許してください)
FIFAでのプレゼンの際、健さんはご自分の被爆者手帳を見せる予定だった。
「日本の復興は世界のおかげ。
是非、世界の恩返しをしたい。
そして、平和だからWカップが開けるというありがたさを
日本開催で世界に発信したい」
と語る予定だった。
死に場所と定めていたのかもしれない。
しかし、プレゼンの前に共催が決定。
それだけに、決定の後、
韓国のチョン会長と握手している際の強張った顔をTVで直視できなかった。
長沼健さん、ご逝去(スポーツ総合研究所Blog)

ここは「広島県人として」とあえて言わせていただきたい。広島県人として、涙無くして読むことはできなかった。

広島の人間にとって、原爆とは苦しみそのものである。被爆による直接の苦しみ、大切な人を失う苦しみはもちろん、「広島出身」と言うだけで差別を受けてきた*1苦しみ、被爆による後遺症の苦しみ(長沼氏も白血球過多で苦しんだ)。

被爆三世の僕ですら苦しんだのだ。ご自分が被爆された長沼氏の苦しみは想像を絶する。その苦しみの元を、FIFA総会という場で公表すること。
それにどれほどの覚悟が必要だったか、感謝という念がいかに本物だったか。その後の「韓国のチョン会長と握手している際の強張った顔」で泣くほどよく分かる。

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無念であったに違いない。しかし、長沼氏の発した意志は今のサッカー界に息づいている。

日本サッカー創世期が終わり、長沼氏のご逝去によって急成長期が終わった。これからは安定成長、成熟を目指していかなければならない。それらはプレーヤー、サポーター、審判など、サッカーに関わるすべての人に課された課題である。

成長した日本サッカーを見せたいよね。頑張りましょう。

*1:被爆者との子供は奇形が多い、被爆者の子孫は代々放射能を有する、など意味不明な差別を受けてきたのである。自分自身は高校生まで広島で育ったのでそう言う差別は受けていないが、今関東に住んでいる状況で子供が生まれたときに「お前は被爆四世なんだよ」と伝え、それを周りに公表する勇気を持っている自信は、ない。